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シリア動乱から再考する明治維新

 シリア紛争は、我々日本人に、歴史観の再考を促してくれる。それは、我々の学んだほとんどを捨てなければならないという悲劇でもある。

 シリアを筆頭に、リビア、イラク等々.....の西側による介入の大義がすべて偽りだったということで分かるように、さらに過去にさかのぼり、我々の学んだ歴史は、ほとんどがカバールたちによって騙されているということだ。

 この件に関しては、WEB上や書籍で何年も前からあちらこちらで多くの方が記事にされている。私の手元にもそういった関係の書籍がなぜかあったりする(笑
眉唾ものだったそれらが、ネットのお陰でここへ来てその信憑性が一気に跳ね上がった。

 私は自国民でないから、アサド政権が独裁政権なのかどうか分からない。したがってその件に関して双方の言い分はドローとしておく。問題なのは、その国の民が幸せかどうか? というところである。ある情報によると、シリア国内でのアサド政権の支持率は70%だという。
私は、そこへ他国が介入し、政権を転覆させるこの状況に、我が国の大河ドラマ、そう、今まさに会津藩と新政府軍が戦況にある「八重の桜」の幕末を重ね観る人も多いのではないかと思う。

 維新が欧米勢力の思惑により起こされた事は今では周知の事実だ。いつの時代、どこの世界でも不満を抱く者は居るだろう。そんな改革派という者たちに擦り寄り、彼らはほどよく日本を事実上植民地化することに成功した............。


 さて、我々の祖先は、その戦い、改革を望んだのだろうか? ここに今回の本題がある私たちの祖先は、時の為政者に苦しめられていたのだろうか? この為政者は、独裁者だったのだろうか?

 私たちは、幕府の封建制度が民を虐げていたというプロパガンダにさらされて来た。どの時代劇を観てもそういう歴史観で伝えている。しかし、本当にそうだったのだろうか? 
いや、そうではない。ある歴史家たちは、日本の民は幸せだったのだという。他国の封建制度とは全く異なる封建制だったというのである。その時代、日本に訪れた外国人のほとんどが、日本の平和と民の幸福度を体感し、驚愕したという。


 では、なぜそのような貧農史観がプロパガンダされたのだろうか? それは明治政府(カバール)が「重税」を正当化するために江戸時代の貧農史観を捏造したというのが本当のところであろう。
 そしてこの悪のシステムは、さらに磨きを加え、現在に至っている。つまり、明治政府が出来て以来、我が国の民は本当の意味で奴隷化されたのである。


 これらの観点から、明治維新の歴史観は見直さなくてはならない。攘夷派 倒幕派どちらが正しかったのかという議論は今となっては不毛である。維新以後、民が虐げられるようになった事は以下の引用からも見てとれる。Wiki

維新を進めるに当たり、大きな問題となったのが税収の確保であった。それまでの年貢は収量を基本とする物納が基本であり、また各藩領において税率の不均衡があったことから、土地を基本とする新たな税制が構想された。1871年には田畑永代売買禁止令が廃止されて土地の売買が可能となり、さらに1874年に地租改正条例が布告されることで土地は私有となり、土地所有者に地券が発行されることとなって、所有する土地に対し地租が課せられることとなった。これにより、土地の所有権がはじめて法的に認められたことによって土地の売買や担保化が容易になり、私有財産権が完全に確立することで資本主義の発展の基礎条件が成立した。


 そう、このときから、資本主義という悪魔(レプ)が日本を蹂躙して行くのである。
そしてさらに同様に、世界史の歴史観も見直さなければならない。シリアは動乱(貧民史観で云えば一揆)が起こる程、貧しい国ではない。維新で例えると、カバール率いる倒幕派攘夷派の戦いを余儀なくされたという事である。
 ちなみに、シリア国民のアサド支持者は、エジプト「アラブの春」後を教訓に、反政府軍と戦っているとシリアンガールは伝えている。

参考:

江戸時代、農民は虐げられていたのか

「百姓」は百の姓。公民の総称。
百姓


 江戸時代は武士がいばっていて、農民をイジメて搾取したようにいわれていますが、実際には農民は「村」の単位で自治しており、領主が「村」に立ち入ることはありませんでした。
 知行取りの武士は「XX石の知行どこそこ」といって領地が定められますが、江戸時代の武士はその領地に住むことも無ければ見にいくこともありません。(一部の藩では実際に領地を治めていた) 領地を治めるのは藩の官僚機構が全部肩代わりしていたのです。
  年貢は「村」の責任によって納入され、年貢未納者は村が弁済しました。これを年貢村請制といいます。年貢の率は5公5民とか言われていますが、検地が終了 してからは農業生産の実態は変化しており、収益性の高い商品作物の導入や農業化工業の進展、農民の賃金収入などといった経済条件を加えると実質は十数パーセントから二十パーセントといったところになります。
 
 1603年に農民統制令が発布されています。これには領主に非分がある場合には、所定の手続きをとればそのムラからの立ち退きが許されていました。武士に対しては「百姓をむさと殺候事御停止たり」と理由もなく切り殺すことを禁じていました。「切捨て御免」とういのは俗説です。また「農民を生かさぬよう、殺さぬよう」と いうのも同様です。よく農民が借金をするとき「年貢が払えないから」と理由をつけた証文がありますが、これは証文作成上の常等文句であり、必ずしも年貢の 重さによって困窮したわけではありません。会社を退職するときに「一身上の都合」という常等文句を辞表に書くのと同様です。

 ムラには村役人というのがおり、名主(庄屋)、組頭、百姓代という村方三役がおり、農民の利益を代表する性格と幕藩体制の行政役人という性格を持っていました。村役人の選出はムラで行います。
 農民は家族員の死去や離散で生産能力が欠如した場合も組という複数農家による助けあいが行われていました。村にはムラの掟があり、違反したものは「村八分」となっていましたが、実際には一定の罰金や労役で済んだようです。

  農民は苗取り、田植え、稲刈りなどの農作業が終わった後は農休みをとり、18世紀後半以降になると娯楽性の強い遊び日として意識されるようになっていま す。大体年間30から40日、場所によっては60日あったといわれます。休日には歌舞伎、踊り、獅子舞、相撲、花火などの祭礼興行を行うに至っています。 あまりにも遊興化が進むと幕藩領主が倹約令を出すようなことも起こっています。豊かになっていた証左でしょう。

 飢饉になると百姓一揆や 打ちこわしが起こりますが、これは体制を壊そうというものではなく、年貢減免などの要求を出すものです。百姓は現在考えられているほど弱い存在ではなく、 「百姓」というのは百(たくさん)の姓という意味で、天皇から「姓」を与えられた公民の総称です。1821年の上野国の百姓一揆では「然れば上御一人より下万民に至るまで人は人というに別はなかるべし」と天皇のもとの平等を訴えています。1853年陸奥国の百姓一揆は「汝等百姓杯(など)と軽しめるは心得違いなり。百姓の事を能く(よく)承れ」とカラカラとうち笑い誇っていたといいます。百姓は天皇の権威の下にあり、強い存在だったのです。



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猫は左が紫苑、右が八雲。

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