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愚行とは何だろね


 ショートコント!「武の道」


    A「この剣こうすると力を入れずに斬れるんだよ」

    B「なるほど!それは氣づかなんだ」

通りすがり「チッチッチッ、昔の剣豪はかくかくしかじかこう言ってるんだよ。間違いを広めちゃダメだよ」

    AB「へー、良くご存知ですね。剣の道に入られて何年くらいになられるんですか?」

通りすがり「え? いや、本で読んだだけだけど.....、それがどうかした?」

    AB「...............。」


 チャンチャン!


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カルマは偉大な清算人

前回の投稿は前置きの話ばかりで長くなりましたが、さて本題です。
私の考えでは、愚考とはカルマを拒否する行為です。拒否しても「カルマが拡大→後で解消」を求められるだけですから
カルマを「アルコンのプログラム」だと言い。またカルマは無視すればいい。カルマは逃れられる。カルマは支配者達は免除されている。などという事を流布する人はカルマの本質を知らず、結果的に自らの言動で
自らの首を絞める行為をしている事に気づかない人です。(私自身、他人の「無知な言動」を責めるという事ではなく、「真の知識」を知って欲しいと思って言っている事ですが・・・・)

まず「カルマ」の定義では、ある行為の結果が、それを引き起こした原因(=行為者)に立ち戻ってくる事です。
「カルマ」には、一般的にはネガティブな意味での「魂の負債(借金)」であるという考え方があります。
次に「カルマの法則」とは、(被害者側の)仕返しのルールなどではなく、(加害者側の)「償いの法則」です。
被害者側は仕返しをせず、加害者側が「被害者に与えた苦痛を」自分自身も体験する事となる法則です。
こうして、加害者の側が「行ってはいけない行為」を知り害を与える行為を自制する様になるのです。
キリストの教えの真髄は「人は人を裁くな。その人の罪はカルマ(=魂の内在神が定める)とカルマの法則とに委ねよ」というものです。つまり、「外からの裁き」(=モーセの律法)を、「内なるカルマ」(=内在神による
罪の償いの行為)へと転ずるものです。聖書の中のいくつかの言葉から見ていきましょう。

(マタイ7.1-5)人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなた方が裁くその裁きで、自分も裁かれ、あなた方が量るそのはかりで自分にも量り与えられるであろう。・・・・・自分の目に梁があるのに、どうして兄弟
に向かって、あなたの目からちりを取らせて下さいと言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁をとりのけるがよい。そうすればはっきり見える様になって、兄弟の目からちりを取りのける事ができるだろう。

(ヨハネ12.47-48)たとえ、わたし(=キリスト)の言う事を聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人を裁かない。わたしが来たのはこの世を裁くためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受け入れない人には、その人を裁くものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人を裁くであろう。

(黙示録20.12-15)死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。数々の書物(=各人の行動の記録)が開かれたが、もう一つの書物(=キリストの語った言葉)が開かれた。
これは命の書であった。死人はその仕業に応じ、この書物に書かれている事に従って裁かれた。
海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、各々その仕業に応じて裁きを受けた。それから死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死(=エーテル体の死)である。この命の書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
(上記の内容とは、地球大艱難→悪魔捕縛→「キリストの1000年王国の成立後」に起きる筈の事柄)

シュタイナーによれば、キリストの教えとは次の様なものです。
シュタイナー・ヨハネ福音書講義「地球霊キリスト」(P.151-154)より
私達の体内に私達の霊と魂が住んでいる様に、岩石、植物、動物からなる地球体の中に住んでいる地球の霊と魂こそがキリストなのです。キリストは地球の霊なのです。
ですから、キリストがごく親しい弟子達に向かって、内輪の集まりで語った時、彼は次の様に語ります。
「あなた方の体の中には、魂が生きています。地球も同じです。あなた方の肉の中に生きている霊は、肉の霊であるだけでなく、地球全体の霊でもあるのです」。
キリストは自分の真の体が地球なのだと語ったのです。「あなた方が草を見、パンを食べる時、麦畑の穂の中の何をあなた方は食べるのですか。私(=地球=キリスト)の体を食べるのです。あなた方が植物の汁を飲む時、何を飲むのですか。地球の血を私(=キリスト)の血を飲むのです」。・・・・(以下略)
(ゴルゴダの秘跡(=キリストの十字架刑)以降、地球の霊がキリスト霊となったとシュタイナーは述べます)

シュタイナー・ヨハネ福音書講義「カルマの法則」(P.160-163)より
キリストが大地の霊であり、大地がキリストの体であるという考え方は、私達に私達相互の深い結びつきを教えてくれます。私達はキリストが大地を霊化するのを知りました。キリストはそれを実行する為に、自ら
の存在の一部分を捧げたのです。・・・・・(中略)
カルマの理念を完全に理解する人は、それをキリストの意味で理解するに違いないのです。
この理念は、どんな人も他人の内奥の裁き手になってはならない、と教えています。カルマの理念をこの意味で理解しなかった人は、それを深く理解しなかったのです。
人が他人を裁く限り、人は他人を、自分の強制下に置くのです。本当にキリストの意味で「私である」を信じる人は、裁きません。「カルマは偉大な清算人である。お前の為した事を、私は裁かない」とただ言うだけです。キリストの言葉を本当の意味で理解した人の前に、罪人を連れて来たとしましょう。・・・・・キリスト者であろうとする全ての人が、この罪人の重い罪を告発するとしても、本当のキリスト者は言うでしょう。
「この人がそれを行ったのかどうかについて、君達が何を糺そうとしているとしても『私である(=内在神=I AM)』が尊重されねばならない。全てはキリスト霊そのものの法則である偉大なカルマの法則に委ねられなければならない。キリスト自身(=全ての人間の心にいる内在神)の手に委ねられねばならない」。

(ヨハネ8.1-11)
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆ご自分の所にやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者達やファリサイ派の人々が、姦通の場で捕らえた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。ところであなたはどうお考えになりますか」。
イエスを試して、訴える口実を得る為にこう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。
「あなた達の中で罪を犯した事の無い者が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって一人また一人と立ち去って、イエス一人と、真ん中にいた女が残った。イエスは身を起こして言われた。「婦人よあの人達はどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。
(彼は、一切の「外からの裁き」を内なるカルマに転じるためにこう語るのです)
女が「主よ、誰も」と言った。
(彼女の罪(による外からの裁き)は、彼女自身のカルマに委ねられたのです。大切なのはカルマの中で成就される罰を考える事ではなく、良くなることを考える事なのです)
イエスは言われた「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからはもう、罪を犯してはならない」。
という内容です。「キリストの教え」とは、人が犯す罪は全てカルマに置き換えられ、カルマの法則を通して解消される事になるというものです。

自らの罪を「カルマの法則」を通して解消しようとする人に対して、カルマは悪のアルコンのプログラムだから「カルマなど単に無視すれば良い」という考え方は、カルマの何たるかを全く理解していないのです。
(「カルマを無視せよ」の考えはキリストの敵対者達の勢力(=背後にネガティブET)の教えの様です)
聖書には、真実でない作り話にそれる時が来る。の内容や、全ての人が教える者となるべきではない。と述べています。また、罪を犯す者は(一定期間の間)全て罪の奴隷となる。とも述べています。
(2テモテ4.3-4)人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳障りの良い話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師達を呼び集め、そして真理からは耳をそむけて作り話のほうにそれていく時が来るであろう。
(ヤコブ3.1-2)わたしの兄弟達よ、あなた方のうちの多くの者は教師にならないがよい。わたし達教師は、他の人達よりも、もっと厳しい裁きを受ける事がよく解っているからである。私達は皆、多くの過ちを犯すものである。
(ヨハネ8.34-35)イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなた方に言っておく、全て罪を犯す者は罪の奴隷である。そして奴隷は(=カルマの負債を支払い終えれば)いつまでも(罪の)家にいるものではない。しかし、子は(=サタンを愛する罪の子は)いつまでも(罪の家に)いる。

罪の奴隷とは、どの様な状態かというと、自分自身では止めたいと思っている悪癖や喫煙、覚醒剤常習の癖が止められない状態と同様のようです。パウロはローマ人への手紙の中でこう述べています。
(ローマ7.15-25)私(=パウロ)は自分のしている事が解らない。なぜなら、私は自分の欲している事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。・・・・・(中略)私の内に、すなわち私の肉の内には善な
るものが宿っていない事を私は知っている。なぜなら、善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。
・・・・・・(中略)すなわち私は、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法(=罪の奴隷の律法)があり、私の心の法則に対して戦いを挑み、そして肢体に存在する罪の律法の中に、私を囚
にしているを見る。・・・・・(中略)私自身は心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。
(心の戦いで、精神の「神の律法」が勝てば、その人は「罪の奴隷の律法」から少し自由になるのです)
しかし、罪の子(または罪の奴隷のままの者達)が、自分達は「カルマに耐えられない」と思っている(?)ので(長いもの(悪)に巻かれる形で)「カルマは幻想だ」、「カルマは無視してよい」の主張を展開するのです。
また、耐えられないと思っているのは自分の勝手な思い込みで、神は耐えられない試練は与えない。と知るべきです。
最初はつらくても、だんだん楽になるのが「神への道」。最初は楽で後からだんだん苦しくなるのが「闇への道」。と日月神示も言っている様に、(人が麻薬を止める時の様に)入口が苦しいので神への道を避ける人の何と多い事か(!?)と思う次第です。

神智学を学び中の者 さん

 ご自身のブログがお有りならトラックバックでリンクして差し上げますよ?

もう、だれのブログなんだか......(笑

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モモさん

 ですね。

 で、

> こちらのブログの隠れ読者の方々も

って、なぜ隠れる?!(笑
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タラの芽団地

Author:タラの芽団地
タオイスト
ベジタリアン
合氣道々場主

猫は左が紫苑、右が八雲。

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