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いきものがかり

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 いきものがかりというのはとかく気を使うもので、日常の気疲れでブログに文章を書くという行為さえ億劫になり、なるべく控えていました。それでもあちこちのブログは拝見させ頂いていますが、テンションの下がるのは、やはり公人でもないブロガーへの誹謗中傷記事です。時折、その叩く文面から幼児性が垣間見え、正直ゾッとします....。

 理解できないのは、そういうことをしながら、その中傷相手に「いずれ神の裁きがある」「カルマによって返ってくる」とカルマの法則が適応されるのを望んでいるんですね? つまりカルマの法則というものを信じている訳です。

 しかしそれでもそういう行為をするということはどういう事なんだろう....と考えたとき、ああ、この人たちはカルマが想念に対し発動するということを理解していないのだな? と思わざるを得ませんでした。もしかしたら、物理的な攻撃だけがカルマとなると思って安心しているのかな? と思いました。

 そこで、残念ながら古い弟子も分かっていなかったようなので、その事(あくまでもカルマの性質(システム)を語るもので、私の思想とは関係ありません)に関してすこし書こうかと思います。おそらく理解していないのはその人たちだけではないのでしょう。
いつものように大雑把で恐縮ですが、それは文があまり長くならなように心がけているんですよ?(笑)ご理解ください。いずれにしても、カルマに関してはこれで終わりにしたいものです。
 
 
 さて、『氣』が分かる人には説明は要らないんですが、例えば、私たちの武道では、入門当初から相手の氣の動きを察知する稽古をします。相手の氣が動いた瞬間にこちらはなんらかの対処をする訳です。

 我々3次元で生きる者は『氣』が発生してから行動がある訳です。例えば箸でおかずを取るときも、自ずと意識=氣はおかずに注がれているわけです。もちろん、普通の人は日常でそういうことを意識していませんから、「氣」とか、或は若干話しが逸れますが、「気配」とか、そういうものに疎いわけです。

 何度か書いていますが、客が来る時に猫がソワソワしているのも、お客の氣が我が家に向いているからです。目的地へ意識を向けなければ、目的地に着きません。そこを目指しているからこそ到達するのだという事は簡単な理屈です。

 要するに、氣が行為に先行しているということです。


 それを踏まえると、攻撃する時には、「ぶっ殺してやる」的な想念が起きてから身体が動きます。その想念を我々は『氣』(殺気など)と呼びますが、特に攻撃者が素人の場合は、その氣が起きてから拳が届くまでが遅いので、その時間差でよける事が出来る訳です。
 
 逆に攻撃側は、その時間差のお陰で取り返しのつかない事態にならずに済む事もあります。特に相手との距離がある場合は、「このやろう!」と怒り心頭でツカツカ向かってゆく間に我に返り、冷静になって思いとどまる場合もあるでしょう(これが銃だとそうはいかない)。
 こういう場合、多くの人が、あのとき取り返しのつかない事にならなくてよかった....。と胸を撫で下ろすでしょうが、残念ながらそれはあくまで3次元での話しなのです。

 想念の世界では、あなたが「殺してやる!」という念を抱いた瞬間に相手に致命傷を与えているのですよ。送った「氣」はもう戻す事はできません。その氣が発生した瞬間、そのヴィジョンは相手に届いているのです。

 もしあなたが氣の達人であれば、「死ね!」と心で想った瞬間に相手は死ぬでしょう。強い念は岩をも通すのです。そしてそこに時間はありません。仮に肉体は死ななくとも、傷を負います。それはつまり、あなたはカルマを背負う事になります。


 昨今、人の思考で飛ぶ無人飛行機の話しが出ていますが、あなたがその操縦者だと置き換えれば分かりやすいかもしれません。
これが爆撃機なら、あなたの思考がミサイルのボタンを「押した」瞬間にミサイルは発射されるということです。この場合、もう思ってしまったことは取り返しがつかないのです。卑近な話しでは、このミサイルはあなたの拳や蹴り(特にアメリカなら銃)だということです。


 パラマハンサ・ヨガナンダの自叙伝は、まるで聖書のように教訓が詰め込まれています。以下は、ヨガナンダが蚊に刺されとき、その想念に対する(彼の師である)スリ・ユクテスワの教えです。

 私は、思わず手をあげてそれをたたこうとした。
『いや、待て』折しも私の脳裏に、アムヒサー(非暴力)に関するパタンジャリの言葉の一節が浮かんで来た。
 「やりかけた事を、なぜしまいまでやらないのだ」
 「先生! 先生は殺生を奨励なさるのですか?」
 「そうではない。しかしお前は、心の中ですでに蚊に致命傷を負わせてしまったではないか」
 「それはどういう意味でしょうか?」
 「パタンジャリのアムヒサーとは、殺そうという欲望を起こさないことをいうのだ」 



  行動が伴うほど(手が出てしまいそうなほど)の想いは心の奥深くから発生していますから、仮に思いとどまったとしてもそれはヴァサナ(カルマの種)となります。逆に、心の浅い所での想いでも、行動を起こしてしまえばそれは同じ事です。


 最期に、上記ヨガナンダの続きを引用して終わりたいと思います。ユクテスワが語っている事は「タオ」そのもので、当ブログが常日頃から言いたいことの全てが凝縮されています。

 この世は、アムヒサーを文字どおりに実行するにはまことに不便に出来ている。人間は、有害な生き物を滅ぼすことを余儀なくされることもある。
 しかしながら、それらに対して怒りや憎しみをいだくことまで余儀なくされているわけではない生命はいかなる形態を取ろうとも、このマーヤの世を生きる平等の権利をもっている。創造の神秘を悟った聖者は、無数の矛盾した現象にも調和して生きていくことができる。他を害そうとする感情を完全に克服した者は、この真理を理解することができるようになる。




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Author:タラの芽団地
タオイスト
ベジタリアン
合氣道々場主

猫は左が紫苑、右が八雲。

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